生きているということ


テオ・アンゲロプロスが死んでから2年がたつ。
世界的映画監督の、最後の作品『エレニの帰郷』。

映画館へ行き、座席に座ると、母娘のコンビが、何か話ながら席に着くのが見えた。そのノリの具合から、これは、もしや、この親子(どちらも成人以上だ)はテオ・アンゲロプロスをよく知らずに来てしまったのではないかと不安になった。

奇しくも今日は木曜日、レディースデー。安い日に、何か映画でも観ましょうかと選んだ映画が、超絶長回し曇り空難解映画だった人生のいたずら。

そして、思った通り、映画が始まるとガサガサ何か食べ始め、中盤までよく持ったと思うが、案の定、途中で退場していった。

僕は、ここでこんなことを書いて、その2人を非難したいとか、映画芸術への無理解がどうとか言いたいわけじゃない。

映画館で配布しているシネマニュースに、『エレニの帰郷』の紹介文、

ローマの撮影所チネチッタ。映画監督の"A"は、中断していた撮影を再開しようとしていた。しかしその作品の完成は、ある事情により困難を極めていた。

と書いてあり、これが笑えるほどまったく映画の紹介になっていないので、あるいは2人は別の何かを期待をしてしまったのかもしれない。

だから、僕は責めているのではない。むしろ悲しんでいる。

これは、テオ・アンゲロプロス最後の映画だ。もう彼は、自分の映画を新しく撮って、途中退場していったあの母娘に、自分の映画の挽回をすることはできない。

あの母娘はテオ・アンゲロプロスの映画を永遠に退屈と思い続け、ドンパチもなく笑いもなくエンディングにJ-POPが流れることのないただ長いだけの映画だと思って日々暮らしていくのだ。それが悔しい。

死する映画監督の悲劇。彼はもう新作を作ることなく、新たにあの2人を振り向かせることはできない。

死する悲しみ。生きる希望。生きていれば、つまりチャンスはある。テオ・アンゲロプロスほどの巨匠よりも、生きている凡人にはまだ。

何かある。何か。