ある放送作家の死

「作家の酒」という本を買った。
作家や創作者たちは、どんな酒を(どんな店で)どんな風に飲んだのか。

写真が多く、酒と肴が実に美味しそう。

池波正太郎のページの「天蕎麦か鴨南蛮の蕎麦ぬきと樽の菊正宗でゆっくりやり、ざるでしめる」という一文を読んで、いつか自分もこういう粋なお酒の飲み方がしてみたいなあと思ってしまう。

物書きとお酒……とういことで、鈴木しゅんじさんのことを思い出さずにはいられない。

今さら、だけど、しゅんじさんは亡くなった。昨年11月のことだった。
だけど僕がそれを知ったのは、年が明けてからだった。

原因はわからない。でも、事実なんだろう。

昨日、欽ちゃんの仮装大賞が放送されていた。
エンドクレジットに、しゅんじさんの名前があった。
もしかしたらそれが、最後の仕事だったのかもしれない。

しゅんじさんは、萩本欽一のブレーン集団「パジャマ党」の一員で、
テレビ黄金時代を支えた放送作家だった。

恐ろしいくらいの仕事量をこなし、恐ろしいくらい酒を飲んだのだろう。

僕としゅんじさんとの接点は、僕がICCという札幌市のクリエイター施設に事務所を借りたことが発端だった。
しゅんじさんはそこに入居する人間を審査する、審査員の1人だったのだ。

同じ物書きとして、しゅんじさんはけっこう僕のことを押してくれたらしい。
評価する際、10点満点中、僕に10点を入れてくれたということは、あとで知った。

初めて会ったのはいつだったのだろう。
2004年の3月の、ICCフェスティバル(事業報告・プレゼン大会)の打ち上げだったろうか。

その時、しゅんじさんは酔っぱらっていた。
いや、その時、という言い方は間違いで、僕が会う時、しゅんじさんはいつも酔っていた。

本当は酔ってなんかいなかったのかもしれないけど、
あの、べらんめえ口調と豪快な人柄で、まるで酔っているように見えた。

しゅんじさんはいつ、どんな時でも人を楽しませようとする人だった。
サービス精神なのか職業病なのか、ともかく強烈だった。

だけど、僕があえて、今ここでしゅんじさんのことを書いている理由の1つでもあるのだけど、
しゅんじさんは、全盛期の人ではなかった。

テレビや欽ちゃん黄金時代は過ぎ去り、そのブレーンだったしゅんじさんも、
仕事量はぐっと減っていたと思う。

僕が初めてあった打ち上げの席で、
ある人がしゅんじさんに、最近かかわってる番組は? みたいなことを聞いた。

その時、しゅんじさんは珍しく口ごもった。

質問をした人も、周囲にいた人たちも、あの時のしゅんじさんの痛みがわかっていたのだろうか。

今、ネットの検索で、鈴木しゅんじと打ってほしい。
しゅんじさんのことは、驚くほど少ない。亡くなったことすら情報としてない。

僕はそれに愕然とした。

物書きとはなんだろうと思った。
書いて、作品になって、そして死ぬ。

その後は、思い出されることもない。

だから僕は、せめてブログにしゅんじさんのことを書こうと思った。

いつか、誰かがしゅんじさんのことを検索した時、
しゅんじさんがどんな人だったのか、少しでも知れるように。

僕がしゅんじさんを知っているのは、本当に最後の数年でしかない。
だけどしゅんじさんは、ペーペーで仕事のないシナリオライターを褒めてくれ、
頑張れといつも励ましてくれ、札幌でダメな時は東京の俺のとこに来いとまで言ってくれ、
そしていつもいつも、飲んだくれていた。

それが鈴木しゅんじさんだった。