落語と映画の違い

落語を聞こうと一念発起したのが、2006年の10月。
誕生日に弟から古今亭志ん生名演大全集の1〜3巻をプレゼントしてもらい、以来毎月1本、あるいは2月に1本CDを買い重ねた。

結局、全48巻すべて買い終えたのが昨年。
5年と数ヶ月かかったわけだ。

それでも少しずつ聞き覚えていき、途中、志ん生の息子、古今亭志ん朝のDVD集も買っていき、落語を覚えていった。

やっぱり志ん生はいい。豪放でスカッとしていて、楽しく笑える。
落語のおおらかなところが存分に楽しめる。

その子の志ん朝は正当派で、どんな話でも少しも嫌な気持ちになることなく落語が聞ける。明るくて端正で美しい落語。聞き終えた後にすっきりした気持ちになって幸せを感じる。

僕はこういう2人から落語に入った。
まあ、古今亭の2人しか聞いてないじゃないか、というおしかりの言葉もあるかもしれない。

たしかに、落語はいろんな人の話に触れた方がいい。
現に、東京に行った時は必ず寄席に行き、多彩な落語の芸に触れている。

そうすると、同じ話でも違いを楽しめる。
なるほどあの話をこう料理したのか、とか、ここは意外とうけなかったなあ、とか。

やはり落語というのは伝統芸で、レパートリーをどう演じるか、その違いを楽しむ部分が大きい。それはシェークスピアに似ている。

ところが僕の好きなもう一方、すなわち映画にはそういう楽しみ方はあまりない。黒澤映画をこう料理したか、という度量の広さは、僕にも一般の人にもあまりない。むしろ怒りの方が勝ったりする。

よくもまあ、あの名作をこんなにしたもんだ! 的な。
(そういえば今年は小津映画のリメイクもあるぞ)

いつしか映画も伝統芸のようになり、
あの名作をこう料理したかと、楽しむ時代が来るのだろうか。

僕にも世間にもそんな広い心はまだなくて、
そう考えるとやはり落語は度量が広いなあと。

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