僕はなぜ本屋に行くのか

札幌にある「くすみ書房」は、恐らく、北海道で一番有名な本屋だ。「中学生はこれを読め」「売れない文庫フェア」など独自の企画で全国的にも知られている。

だけど、6月15日、くすみ書房の社長の娘さんが、Twitterに衝撃的なことを書いた。「6月中にまとまった資金が用意できなければ、ほぼ間違いなく閉店してしまうでしょう。なくなります」

それを回避するために、支援運動として、かつてからあった「友の会」への、入会を勧めるサイトが作られた。年会費1万円で、年4回オススメの本が届くなど、特典がある。僕もその日すぐ入会した。

http://kusumierika.com/shobouplus/

くすみ書房ほどの書店が危機にあるというのはやはりショックで、出版不況だとか言葉ではわかったいたつもりだったが、改めて、事実として突きつけられた(自分の本を出してる僕が言うのもなんだけど)。

今回のことで、本屋という存在について考えてしまう。Amazonとかやたら便利なシステムがある今、なぜ必要なのか。

僕は、自分が子どもだった時のことを思い出す。本屋に足繁く通った日々のことだ。

小学校の時、僕は毎年、夏休みになると本屋に通った。読書感想文のために、本を買うのだ。だけど、いつもすぐ決まらず、何度も通って本を品定めした。

時は流れ、中学生になると本屋に行く回数は格段に増えた。目当ては外国文学コーナーだ。そこにスティーブン・キングのハードカバーがたくさんあった。

なぜキングだったのか。きっかけは新潮文庫を読んで最後の方に載っていた他の作家の紹介文だったのだろう。そこにキングのが紹介されていて、とんでもなく怖い、という触れ込みに惹かれたのだ。

で、実際に本屋に行って手に取ったキングの表紙。ハードカバーは藤田新策氏の、幻想とリアルが混ざった表紙だ。これにやられた。
↓藤田新策氏のHP。キングの表紙コーナー。素晴らしすぎる。
http://www.shinsakufujita.com/book/king/king_Frameset.htm

以来、僕は本屋に行くたびに外国文学コーナーの前にたたずみ、ちょっと高くて買えないキングのハードカバーを手に取り眺め、あらすじや解説を読んだり、冒頭の数行を目で追って、その世界を少しでも感じようとした。

この、幾度もの反復。本屋に行ってはいろんな本を眺め、手にとって情報をなんとか得ようとする行動。しだいにいろんな棚へ行き、他のジャンルの世界も知っていく。それによって中学生の僕は、知識や世界を吸収していった。

今、Amazonがあって、一軒の本屋では絶対に太刀打ちできない数の本にアクセスできるが、小さな本屋に行って手にする1冊の本の情報量に勝てるのだろうか。

本は一番身近な総合芸術だ。内容にはもちろんストーリー性があって、セリフがあって、文字の組み方・タイポグラフィ、紙の質感、臭い、色、表紙の絵画性とその手触り。1冊の本に凝縮された情報量は、ネットで得られるものより遙かに多い。

中学の僕が、Amazonでキングの本を見ても、きっと心惹かれなかっただろう。実際に手にとって、あの表紙を生で見て、本の重さと質感を感じなければ、心は動かない。

それができるのは、町の本屋だけだ。
だから僕は、今でも本屋に通っている。