年間ベスト級の本

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

一読して、あ、これは今年ベスト級だな、と思う本がある。

例えばシーラッハ『犯罪』、ミエヴェル『都市と都市』。ちょっと前だとジャック・リッチー『クライム・マシン』。

で、ローラン・ビネ『HHhH』だ。日本では2013年に刊行されていて、僕は2014年になって読んだ。で、思った。これはベスト級だと。

もちろん、2013年に読んだ人たちは、2013年のベストとしてこれをあげていた。そりゃそうだ。

ナチスの一員、「金髪の野獣」と恐れられたハイドリヒ。その男を暗殺するべく差し向けられた2人の男。すさまじい量の資料に裏付けされた、確かな物語と、暗殺決行日からの白熱したシーン。

きっと、これだけでも傑作の部類だっただろう。ところが、この本がただの傑作ではなく、それ以上の、このあともずっと残り続ける1冊になった理由、本編に作者自身が顔を出すのだ。

つまり、1942年のヨーロッパを舞台にした物語と、現在(2008年)この物語を書いている人物の視点が入れ替わり立ち替わり、描かれる。

2008年の作者は、資料を集め、類似するナチスの物語を批評したり、自分自身の揺れ動きを描いてみせる。

物語に作者が顔を出す、という形式はまれにある。文章中に作者の意見が入ったり、あるいは注釈として出てきたり、ポストモダン的に堂々と登場したり。

そういう多重構造が、平面的な構図から物語を解き放つ。

(例外はあるが)物語というのはそもそも作者の価値観の反映だ。さらに歴史物となると、歴史をどう読み解くか、どの角度から描くのかで、作者の史観が反映され、むしろそれを楽しむようだ。例えば司馬遼太郎の一連の作品群を称して司馬史観と言ったりする。

ところが、この本は、時に揺れ動く作者自身が登場し、その心情を描くことで1942年を描いていく。ここが凄いところだ。

例えば、司馬遼太郎の作品『龍馬がゆく』の中で、現在、それを書いている司馬遼太郎の考えや日常、資料調べの過程が挿入されていると思えばわかりやすい。

つまり、問われているのは1942年当時の歴史上の人物だけではなく、それを書く作者(さらに延長すると、それを読む読者)なのだ。

さらにさらに突き詰めると、この『HHhH』に登場する作者というのもまた創作なのだ。物語内の作者が、真の作者ローラン・ビネを100パーセント反映しているとは考えられない。

仮に、作者が100パーセント自分を反映させて書いたと思っていても、物語の中に入った瞬間から、なんであれ(それが自分自身であれ)創作上の、架空の人物になるのだ。

だからこそ、物語は面白いのだ。