空気

イメージ 1

今日もまた、4時半、空気の入れ換え。

事務所で暖房を入れていると、だんだん気分が悪くなってくるので、
新しい空気を入れ込むわけですが、なんだろうその、新しい、ということはどういうことか。

別に事務所の空気が古く作られて、外の空気が新しく作られたわけでなし。

内の空気も外の空気もいつぞや空気となったわけで、きっと、ずっと、この世界にあったわけですね。遙か昔から。

でいうなら、この僕を形作る成分たちも、ずっと昔からあったわけで、驚くべき発見、僕の体はずっとむかしからあった……

……のだろうか?

僕の体のこのタンパク質君たちは、いったいいつからあったのだろう?
母親の胎内で生まれつつあった僕の成分は、母親の体? 母親の食べた物たちが僕になった?

自然界の物が僕になった? 物質はずっと地球上にあって、僕の体はその物質たちで形作られ、僕が死んだらまた別の物質になる? 土に帰って、土からまた別の物になり……

どこまでも続いていくのでしょうか。

そんなことを考えるのは、いま読んでいる本、「生物と無生物のあいだ」のせいでしょうか。

人間の体は新陳代謝でどんどん別の物と入れ替わります。
体に蓄えている脂肪分ですら、入れ替わるそうです。同じ脂肪が蓄えられているのではなく、同じなのは量だけで、次から次へと脂肪分も入れ替わっているそうです。

だとしたら、自分とは何なのか? どうやら今この瞬間自分を形作っている成分(物質)ではないようで。自分という物資は常に入れ替わっているので。

考える自分、なのだろうか。しかし考えている脳もまた、物質レベルにおいては常に入れ替わっているのですね。だとしたら「考え」とか、考えを導き出す電子の流れなのか。

物質は日々、自分の体の中で入れ替わり、残るのはその思考。流れゆく物質の川に残る、流されない思考? 自分という意識? まるで自分という存在が世界の中に残像として残っているような。

生命というのは不思議です。何かとても価値のある物のような気がします。でも、それは自分が生きて、生命があるからでしょうか。生命を持つ生物と、無生物の違いは何でしょう(それを解き明かす本をいまよんでいるわけですが)。違いがあるにせよ、そこに価値の違いもあるのでしょうか。

つまり、石や水よりも、人間や動物や植物(の命)の方が尊いのでしょうか。

いや、生命たる僕の感覚では生物の方が尊く思えてしまうわけですが、それはなぜなのか。また、本当にそうなのか。

なんて、締切から逃避するために、意味もないことを考えてみたりみなかったり。