作品への情熱とは何か。

この前、脚本を書いた舞台の、稽古を見学しに行った。
僕を含め3人、脚本チームで。

3本それぞれの通しを見て、差し入れをしてきた。
見学を終えてミスドにて反省会。

別に反省することもないのだから、
むしろ糾弾会と言った方が近いのか。

脚本を書いた一人が、通しを見て、自分の作品への憤りを隠せない。
もっと面白くなるはずなのに、と。

もう1人も、言いたいことはあるのだろう。

僕は、なし。

僕は自分のシナリオが作品化されるたびに、絶望してきた。
物凄く大きな絶望もあれば、ほんのわずかな、とるに足らない絶望まで様々。

だから、これは、こういうものなんだと思うようになった。
シナリオそのまんまには絶対ならないのだと。

シナリオというものは、とても多くの人によって作品化されるのだから、
変化しない方がおかしいのであって。

だから、いちいち不平不満を述べたところでどうなるわけでもない。
そう思い続けてきた。

だけどこの夜、1人の脚本家が僕の前でおびただしい量の絶望と、怒りと、やりきれなさをぶちまけ、それを見た僕も、なんだか、このままではいけないんじゃないだろうかと思った。

もしもこの不平不満の量が、そのまま、作家としての情熱だとしたら、
大変困るなあと思った。

僕は情熱なるものを外に見せびらかすタイプではなくて、
内側にため込んでいて、それは作品に反映させるものだと思っている。

でもある時、ある人に、お前の作品には情熱が足りない、と言われたことがある。
その人はもういい年だし、春樹ではなく龍を読む人だし、ここで言われた情熱というものは、
単にジャンルの違い程度なのではと思っていた。

それからしばらくして、前述の憤り脚本家(本職は別の物書き)から、僕の作品には毒がないと言われた。

この人はたいそうクセのあるモノを書くので、彼と同じ基準で毒がないと言ってきたのか、あるいは僕の本はスッキリ・カッチリ終わるので(ハッピーエンドという意味じゃなく)、そこに彼なりの不満があったのか。質問したけど明確な返事もなく、それはそれで終わっていた。

そんなことがあって、今回の一件。

僕が書いた脚本の通しも、褒められたものではなかった。
それに対して、憤りを覚えない僕には、情熱が足りないのだろうか。

僕はちょっと、絶望しすぎたのだろうか。
だから、自分の脚本の作品化に、なんにも求めなくなってしまったのだろうか。
(現に作品化になったのに、見てないものもある)

情熱を外に出してアピールする気はサラサラない。
だけど今以上の脚本を書くにあたって、僕に足りてないのが情熱ならば、
もうちょっと頑張ってみてもいいかなと、思わない。