『ガラスの街』にまつわるアレコレ

シティ・オブ・グラス (Graphic fiction)

シティ・オブ・グラス (Graphic fiction)

何気なく検索したら、ポール・オースターの小説をマンガ化した『シティ・オブ・グラス』が絶版になってるようだ。

昔、思い出せば、この本は僕にとって特別だった。

まず第一に、僕のデビューシナリオ『R』にこのマンガを登場させた(今思えば若気の至りだけども)。

第二に、その前後、僕はこのマンガを人の誕生日プレゼントの定番にしていた。けっこうな数を買って、けっこうな人に送った。

当時の僕は、小説版よりもこのマンガ版の方が好きだった。なぜだろう? 読みやすさ? あるいは、冒頭のカッコ良さ? 小説版よりも簡潔な、マンガ版の冒頭。何度も読み直したので、暗唱できるほどだ。

始まりは、間違い電話だった。

それも、真夜中に3度。

しかし、相手が捜してるのは彼ではなかった。

ずっとあとになって、彼は気づくだろう。

偶然だけが、現実だったのだと。

このマンガ『シティ・オブ・グラス』、企画者ボブ・キャラハンが後書きにテンション高く書いている通り、英米文学をマンガ化するシリーズとして企画されていた。

事実、第2弾としてバリー・ギフォードの『ペルディタ・デュランゴ』のマンガ化が最終ページに予告されていた。が、結局それは日本では出版されることなく、増刷された『シティ・オブ・グラス』では、その予告すら消えていた。

今ごろ気になって、調べてみたら、本国アメリカでは出版されていた。
http://www.amazon.com/Barry-Giffords-Perdita-Durango-Thriller/dp/0380771098/

が、それ以降、このシリーズは出ていない。結局2作で終わってしまったようだ。

どうもオースターの『シティ・オヴ・グラス』、そういう様々いわくがつく作品らしい。

例えば今、『シティ・オヴ・グラス』と書いたけれど、この邦題は、角川から初めて出版された時についた題で、翻訳者も、今、オースターの翻訳を一手に引き受けている柴田元幸氏とは別の人だった。

この翻訳本はけっこう不遇なあつかいを受けて、前述の柴田氏が訳したオースター『幽霊たち』のあとがきで邦題を遠回しに批判されているし、ファンには長い間、柴田訳が望まれていた。

で、2007年雑誌『coyote』でついに柴田訳『ガラスの街』全編が掲載され、2013年には新潮文庫に入った。

ちなみに文庫の背表紙にナンバーが打ってるけど、「0」なんていう番号初めて見た。オースターの小説デビュー作だから(『孤独の発明』を小説として換算しなければ)、一番先頭に持ってきたのだろうか?

決定版とも言える柴田訳が出たからだろうか、角川版『シティ・オヴ・グラス』はいま絶版だ。

ちなみに『シティ・オブ・グラス』はマンガ版、『シティ・オヴ・グラス』は角川版。「ブ」と「ヴ」が違う。この違いも『ガラスの街』という邦題がついた今となってはさほど意味のないものになってしまった。

脱線すると、上の「0」番を写した写真、本棚に50音順に並べると、オーウェル→オースターの順になる(英語にすると違うけど。AuterとOrwell)。考えてみると、オーウェル1984年』もまた、『ガラスの街』と同じく、主人公がノートに自分のことを書き留めていく話だ。

ここからはまったく想像(とこじつけ)だけれども、『City of Glass』がアメリカで出版されたのは1985年。もしかしたら、書かれたのは1984年だったのかもしれない。

オースターとオーウェルの共通点は探すといろいろありそうだ。オースター的には何よりデストピア小説の傑作『最後の物たちの国で』がオーウェル的だし、『ムーンパレス』前半や『偶然の音楽』の閉塞感も『1984年』を彷彿とさせる。

まあでも、それはまた別の話、か?

さらに追記:
マンガ『シティ・オブ・グラス』の絵を描いたデビッド・マッズケリは、傑作と名高い『バットマン イヤーワン』も描いている(イヤーワンの方が先)。線の細さ太さを描き分け、特に太い線の黒さが印象的な画風はこちらでも健在。

バットマン イヤーワン/イヤーツー

バットマン イヤーワン/イヤーツー